世界に誇る音と光の技術
浜松が生んだ楽器産業
「ものづくりのまち」浜松の玄関口、東海道新幹線浜松駅コンコースにはピアノが設置されています。このことからも浜松と音は切ってもきれない関係にあることがうかがえます。
浜松の楽器作りは、1887年、山葉寅楠【図16】が、浜松尋常小学校でオルガンの修理をしたことから始まります。その後、オルガン製作を成功させた山葉寅楠は、1897年に日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ株式会社)を設立し、1900年に国産ピアノ第一号を完成させました。
その山葉寅楠のもとでピアノ作りに取り組んでいた河合小市【図17】が、1927年に河合楽器研究所(現:株式会社河合楽器製作所)を設立します。この二人が出会ったことが、浜松にピアノの二大メーカーが誕生するきっかけとなりました。さらに、現在では、梯郁太郎【図18】、が創業した電子楽器メーカーであるローランド株式会社が浜松に本社を置いていることも知られています。
浜松の地で楽器産業がこれほどまでに発展したのはなぜしょうか。ピアノ製造を支えたのは木工技術ですが、ここにも浜松の風土が関係します。前章でも言及したように、天竜川上流には森林資源が豊富に存在し、切り出した木材を運ぶ際にも、天竜川を活用できました。また、「遠州のからっ風」によって、それらの木材を十分に乾燥させられたことも利点の一つです。この恵まれた環境と、多くの木工職人の技術力が相まって、楽器産業を進展させました。
音楽を形づくる音の3要素
さて、楽器で奏でるのは音ですが、音とは何でしょうか。一言で説明すると、音とはものが振動することで発生する波です【図19】【図20】。振動している身近なものは空気です。
例えば、演奏者が太鼓を叩くと、張られた皮が振動し、周囲の空気を押したり引いたりして、作り出された疎密が波のように伝わります。これを「音波」と呼びます。この音波が耳の鼓膜を振動させ、それを耳の神経が音の信号として脳に伝えます【図21】【図22】。
音の波形が上下に一往復する間隔を周期、空気の振動の大きさを振幅と呼びます【図23】。高音・低音を指す音程は振動の回数とその周期の長さで決まります【図24】。音の大小を指す音量は振幅の大きさのことです。そして音色の違いは波形に表れます。音程、音量、音色を音の3要素と呼んでいます。音楽は、この3要素を巧みに操っているというわけです。
私たちは常に音に囲まれて暮らしています。例えば、救急車が近づいてくる時と遠ざかっていく時で音の聞こえ方が変わりませんか?それもここで紹介した音の物理的な性質によるものです【図25】。聞こえる仕組みを少し考えるだけで、音の世界の奥深さに触れることができます。
産業で生かされる光の技術
輸送機器、楽器と並んで光の技術も浜松の産業の特徴の1つです。2013年には、浜松を光科学、光産業の一大拠点にすべく、産学が一体となり「浜松を『光の尖端都市』に 浜松光宣言」を発表しました。
私たちが目で身の回りを見るとき、光の存在は不可欠です【図26】【図27】。光は、電磁波という波であり、同時に粒子、つまり物としての性質も持っています。
先述した音と似ていますが、光の波としての性質を表すために波長という言葉を使います。私たちの目に見える光は可視光と呼ばれています。可視光より波長が短くなっていくと、目には見えない紫外線やX線と呼ばれる領域、一方で、可視光より波長が長くなっていくと、やはり目には見えない赤外線や電波と呼ばれる領域があります【図28】。
波長の違いは、可視光の色の違いにつながります。私たちは、太陽の光や照明器具の光を白っぽいと感じますが、プリズムを使って確かめてみると色を分解でき、白っぽい色には複数の色が重なっている、ということが分かります【図29】。光の色のうち、特に、赤(Red)緑(Green)青(Blue)の3色を、光の三原色と呼びます。このわずか3色の組み合わせで、この世に存在するほとんど全ての色を作り出すことができるのです【図30】。
天野浩博士の功績
浜松光宣言から1年後の2014年、大きなニュースが世界を駆け巡りました。天野浩博士を含む3名のノーベル物理学賞共同受賞です。浜松市出身で、名古屋大学教授の天野博士は、青色発光ダイオード(青色LED)の開発および実用化に寄与し、その功績が認められ受賞に至りました【図31】。
青色LEDの開発により、白色LED(青色に黄色を合わせて作る)を低コストで量産することが可能になり、人々の暮らしに大きな利益をもたらす発明となったのです。天野浩博士は、2015年に、浜松科学館の名誉館長に就任しました。
光の技術の系譜
浜松高等工業学校の助教授であった高柳健次郎【図32】は、映像を撮像、表示する電子式テレビジョン技術の開発に挑戦し、1926年に雲母板上に書いた「イ」の字を、世界で初めてブラウン管上に電子的に表示することに成功しました。このテレビはイ号テレビ【図33】と呼ばれています。
高柳の門下生として浜松高等工業学校電気科で学んだ堀内平八郎【図34】は、高柳からの指導や薫陶を受けました。高柳に大いに感化され、1948年に東海電子研究所を、1953年に浜松テレビ株式会社(現:浜松ホトニクス株式会社)を設立しました。その後、光検出器の一種である光電子増倍管を国産化し、他社を凌駕する性能をもつ製品開発に成功します。